墨田住人の備忘録

色々な情報に接して得心することは多いけれども、40を過ぎてからすぐに忘れてしまうので備忘録として書こうと思う。

秋葉神社

 国道6号線から少し曳舟側に入ったところに、秋葉神社という小さな神社がある。

 「考証 江戸を歩く」という少し古い本に書かれていたので散歩がてら立ち寄ってみた。墨田区周辺は私の実家のある埼玉などとは違い、江戸時代から沢山の人が生活をしていたので、神社や仏閣などが数多い。この神社も今となっては目立たないが、江戸時代には火の神として信仰を集めていたとのこと。

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 国道6号を挟んで反対側は「鳩の街」と呼ばれるところであり、そこを突っ切ったところは向島の花街になる。少し下った東向島の辺りは昔は「玉の井」と呼ばれていた私娼街があったことは聞いていたが、鳩の街は終戦後に玉の井から移った私娼街だったというのは最近まで知らなかった。田舎者の私からすると、本当に墨田区周辺の歴史はディープだと感心してしまう。

 

考証・江戸を歩く

考証・江戸を歩く

 

 

 

東京モスリン・・・2

 「女工哀史」の著者である細井和喜蔵は東京モスリン亀戸工場に勤務していたので、本書には当時の工場の様子が何度か出てくる。

 「亀戸工場」と言っても実際の場所は現在の東あずま駅に近い立花団地の辺りである。当時の工場歌といものが載っているので引用する。

 

(1)花の名どころ 亀戸に

  香(にお)う梅より なお清き

  操を誇る 三千の

  心は1つ へだてなし

(2)ここは吾妻の 森近き

  河のあたりの 大工場

  心のかじを 定めつつ

  真白き綿を 紡くところ

 ~以下略~

 

 細井は「よくもまあこんな馬鹿げた歌を作った」と言ってケチョンケチョンにけなしている。曰く、現実には東京モスリンの吾嬬工場(今の文花団地、オリンピック辺り)から亀戸工場へいく河には、水草一つめだか一匹浮かばぬ泥河で、辺りは砂塵と煤煙で濛々とした荒地である。また、亀戸に花があったのは江戸時代の話であり、吾嬬に森があったのなどは数百年も前のことだ、と書いている。

 その時代から百年が過ぎた現在、工場の煤煙は消え、亀戸天神の藤や香取神社の梅などは見事に咲くようになり、北十間川旧中川は魚が住み野鳥が来るような河に生まれ変わった。

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  「女工哀史」に書かれている当時の工員達の処遇は悲惨である。前借金などで事実上売られてきた工員が逃げないように、工場内の寄宿舎は監視され高い塀が張り巡らされていた。亀戸工場では外で買い物もできないために、紐に結わいてお金を包んだ風呂敷を塀の外に下ろして業者から買い物をしていたそうである。人々の自由が奪われていた時代というのは、戦時中だけであった訳ではないということだ。

 

旧中川のカワセミ

 旧中川にはカワセミがいる。

 旧中川というのは、現在の荒川から発して亀戸中央公園の裏を通るやたらと曲がりくねっている川だが、自宅から平井方面に抜けようとする時に渡ることがある。

 この川の歴史に触れるときりがないが、数年前まで行われていた整備事業によって川の水質は改善し、川岸には遊歩道ができて悪くない風情になっている。私がこちらに来た10年の間にもだいぶ変わったけれども、それ以前の姿しか見ていない人がここを訪れたら同じ川だとは思えない程変貌しているだろう。ちなみに墨田区側には旧中川につながっている北十間川というのがあって、オリンピックの横やスカイツリーの傍を流れている。北十間川も以前は本当に汚いドブ川だったが、スカイツリー開業が決まってからは何年にも亘る工事の結果、今では観光船などが通れるような見違える川になっている。

 

 旧中川と蔵前橋通りが交差する辺りに、数年前に出来た「島忠ホームズ」というホームセンターがある。その裏側辺りに、カワセミを呼び込むための人口の島と巣穴が作られている。4月になって見に行くと、2羽のカワセミが巣穴を出入りしている。こんなに小さいのに、遠目から見てもはっとするような鮮やかな色彩を放っている。私はカメラに関しては素人だけど、アマチュアカメラマンがシャッターチャンスを逃すまいと何時間も根気強く待っている気持ちが良くわかる。

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 カワセミを見れるのはここだけではなく、子作りの季節でなくても旧中川に飛来する(私も一度だけ他の場所で見たことがある)が、いくら待っても来るとは限らないので、やはりこの時期に巣穴辺りを見に行くのが一番確率は高いだろう。

 他にもこの周辺には鴨、バン、カモメ、子鷺、川鵜などは日常的に見れるし、3月末からはボラが産卵のためにやってきて驚くほど大量に泳いでいる。数十年前には想像できなかったほど豊かな川に生まれ変わったというのは、住人にとっては大変有難いことだと思う。

 

東京モスリン・・・1

 モスリンとは何ぞや。

 家からそれほど遠くない団地は、その昔「東京モスリン」という会社の工場だったそうだ。そこで調べてみると、モスリンというのは毛織物の1つらしい。今ではほとんど流通していないが、戦前に日本が紡績大国だった頃には大量に生産して輸出などをしていたとのことだ。モスリン工場、あるいはキャラコ工場(同じもの?)は日本全国に存在し、東京にもかなりの数があったようだ。

 墨田区で紡績と言えばカネボウが有名で、花王の傘下になった今も鐘ヶ淵のそばを通ると会社のロゴを見ることができる。今でこそ中小企業の集積地のイメージは強いが、昔は基幹産業だった紡績関係などの大工場が数多く存在していた。今でも近くの花王の工場はそこそこ大きいけれども、それ以上の規模だったのかもしれない。

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 ところで東京モスリンであるが、これを調べている時にどうやら東京モスリン亀戸工場というのは、その昔歴史で習った「女工哀史」の舞台だったということを知った。

東京モスリン亀戸工場というのは、今で言う墨田区の立花団地の辺りである。最初は少し混乱してしまったが、東京モスリンにはもう一つ吾嬬工場というのがあって、それは今の文花団地やオリンピックの辺りらしい。亀戸は江東区であるし、今は学校名などから立花団地の辺りの方が「吾嬬」という名称がしっくりくるので吾嬬工場だと勘違いしそうだ。文花団地の辺りをわざわざ吾嬬工場としたのは、こちらが後から出来たからだろうか。

 

 女工哀史の著者である細井和喜蔵が勤めていたのは亀戸工場の方である。規模としても大きかったようだが、当然ながら自分の勤めていた亀戸工場のエピソードが最も多い。周辺の様子などの記述もあり、全く変わってしまった現在との繋がりなどもあって興味深い。ただ興味深いのは確かであるけれども、延々と書かれている中身を読んでいるうちに沈鬱な気分になる。細井は労働運動に関わっていたので幾分誇張があるのかもしれないが、それにしても酷いものだとしか言いようがない。昨今耳にする労働問題とは別次元の話だと思う。

 

 

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

 発行されたのは一年近く前であるが、最近この本を読んだので感想を少し書く。

 

 本書は消滅した三洋電機とその社員について記録したものだ。私は三洋電機と同じ電機業界に属する会社に勤務していたので、この10年余りの激動期を遠目には見ていた。しかし、当時の認識としては、経営悪化の原因は2004年の新潟中越地震の被害が大きな要因なので、いささか同情の目を向けていたように思う。

 最初のうちは同情的だった世間(とりわけマスコミ)の目が厳しくなったのは、経営内容が悪化していることよりも社長の世襲と野中会長就任だったと思う。その頃から内紛が続いて決定的な危機を迎えるまでは、どちらかといえば最近の大塚家具のようにゴシップ的な好奇の目にさらされていたので、経営危機の本質的な問題はぼやけていたように思う。この本を読んで、ゴタゴタの前段階として抱えていた問題を幾分理解できたように思う。

 

 10年ほど前には私は業界団体の活動に関係があったので、当時の三洋の社員でも顔が思い浮かぶ人もいる。2000年代初頭のITバブルがはじけて、多くの電機メーカが大赤字を出していた頃には、三洋はソニーやシャープとともに「3S」と言われて勝ち組として賞賛されていた。各社のトップを眺めてみても井植、出井、町田の3人は格段のオーラを放っていた。勿論マスコミ各社も名経営者と持ち上げていた。それが今や3人ともが戦犯扱いというのは何とも皮肉であり、勝てば官軍、負ければ・・・ということなのだろう。

 

 本書の主旨は、解体された三洋電機の社員の「その後」ということだが、ドキュメンタリーと言うにはやや美しすぎるかなと感じた。三洋で幹部だった人やその後ある程度充実した社会生活を送っている人の話が多いので、愛社精神があったり三洋の時代を懐かしんだりということが強調されている。でも、もっと実際は会社や経営陣への恨みがある人もいるだろうし、悪者として描かれているパナソニックや金融サイドの人達の言い分もあるだろう。インタビューになど絶対に応じない埋もれた人たちの苦しみは、もっとドロドロしているのではないかと思う。

 

 三洋電機の破綻は、地震による被害は単なるきっかけあって、根本的な要因は経営トップの放漫経営であるというのが著者の見解なのかと思う。本書を読めば、確かに井植敏の判断ミスは拭いようがないもののように感じる。しかし、2000年代前半のあの頃、リスクを取らない経営によってサムソンに半導体でメタメタにやられ、トップダウンの決断をする経営者への異常なまでの賞賛は何だったのか。リスクを取って経営資源を投じた三洋も、ソニーも、シャープもそれを言ったら同じく間違いを犯している。それどころか、少し時期は遅れるけれども、プラズマへの巨額投資を行ったパナソニックなどは最も酷い判断ミスだった。結果を見れば、リスクを取った事業はほとんど数年で失敗しているのだから、経営者の質云々ということではないのかもしれないと思う。ソニーやパナがあれほど手酷い失敗をしながらも何とかやっているのは、会社そのものの体力があったからという事に過ぎないのではないかと思う。一旦何かでつまづくと、負の連鎖から抜け出すまでには時間がかかる。本書でも井植・野中両氏が必死にもがいても泥沼にはまりこんでいくのがわかる。その時間を何とか耐えるだけの体力を持たないと、会社はいつ何があってもおかしくないということなのかもしれない。しかし、10万人の社員を抱えて2兆円の売上規模を持つ会社でも10年も持たないのだから、この先も何があるかわからないのだと考えさせられる。当時はまさかこんなことになるとは、当事者も部外者も想像していなかった。

 

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

 

 

 

 

女工哀史

 

 墨田区の文花に住んで10年。ここは生まれ育った場所ではないし、労働問題などにも関心がある訳ではない。

 というのは言い訳になるけれども、恥ずかしながら最近までこの辺りが「女工哀史」の主要な舞台であったことを全く知らなかった。「女工哀史」という本を読んだことはなく、大学入試で選択した日本史の中で微かに知識があったに過ぎないので、作者(細井和喜蔵)の名前も忘れていた。

 ちなみに「もう一度読む 山川日本史」という本が自宅の本棚にあったので、気になって確認をしてみたところ、女工哀史については一言も掲載されていなかった。高校の教科書は山川出版だったので、授業で習った訳ではなくて参考書で覚えたのだろうか、それとも以前は記載されていたものが最近の教科書には出ていないのか・・・。

 

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 墨田区に移住してからは、僅かながらもこの周辺の歴史などにも触れる機会はあった。区役所や地域の人達も様々な媒体で歴史を伝えようとしていると思う。例えばポジティブな面で言えば、葛飾北斎勝海舟、あるいは芥川龍之介などの著名人のゆかりのある地であること、両国の相撲や回向院などの歴史なども積極的にPRする類であろう。また、悲劇として関東大震災東京大空襲などで最も被害が甚大であったことなどは私でもそれなりの知識はある。

 墨田区について知っていることは概ね以上のようなものだった。転居してからも地域の歴史に興味がなかった私は、江戸時代に湿地だったところが整備されて明治以降に中小の工場の集積地となり、空襲で焼け野原になってから現在の下町が形成されたものかと思っていた。

 しかし、少し前に何かのきっかけでこの辺りに「東京モスリン」という工場があった事を知った。それから墨田区の明治~大正~昭和初期の古い地図を見てみた。

 

  「女工哀史」に関しては、正直なところ全く墨田区と関連付けて考えたことはなかった。私の浅い知識の中では同系列にある「あゝ野麦峠」のように、都会である東京からは遠く離れた農村の方にある工場のドキュメンタリーだと思っていたのである。

 だから、自宅から近くてよく歩いている辺りが「女工哀史」に出てくる場所だということには、どうもしっくりこないというか全く現実感がなかった。そんなこともあって、「女工哀史」を読んでみていま一度この地の歴史を考えてみた。

 

小村井、吾嬬、文花、立花・・・墨田のことなど

 

 東京の東側、墨田区に居を構えてはや10年。引越した時に妻のお腹にいた子供はすでに小学校の高学年になった。

 

 私自身は生まれも育ちも埼玉県で、とにかくこの辺りの予備知識は全く無い。妻は東京生まれだけども、興味の対象が全く違い地域の歴史などには関心なし。

 恥ずかしながら何も知らないまま10年も住んでいて、子供に教えられるような知識がない。今さらながら墨田区、とりわけ住居に程近い亀戸線沿線(小村井~東あずま)はそもそもどんな歴史を有しているのかが気になるので少し調べてみる。

 

 それと、本を読み漁っていると、とても大事な事が書かれていても年齢のせいか忘れてしまうので、心が動かされたところも記録しておきたい。

 

 さらに、時事問題、政治問題などについても、私は短絡的で思考が浅いので一貫しないことが多いかもしれないが、リアルタイムで感じたことを書いておこうと思う。