東京モスリン・・・2
「女工哀史」の著者である細井和喜蔵は東京モスリン亀戸工場に勤務していたので、本書には当時の工場の様子が何度か出てくる。
「亀戸工場」と言っても実際の場所は現在の東あずま駅に近い立花団地の辺りである。当時の工場歌といものが載っているので引用する。
(1)花の名どころ 亀戸に
香(にお)う梅より なお清き
操を誇る 三千の
心は1つ へだてなし
(2)ここは吾妻の 森近き
河のあたりの 大工場
心のかじを 定めつつ
真白き綿を 紡くところ
~以下略~
細井は「よくもまあこんな馬鹿げた歌を作った」と言ってケチョンケチョンにけなしている。曰く、現実には東京モスリンの吾嬬工場(今の文花団地、オリンピック辺り)から亀戸工場へいく河には、水草一つめだか一匹浮かばぬ泥河で、辺りは砂塵と煤煙で濛々とした荒地である。また、亀戸に花があったのは江戸時代の話であり、吾嬬に森があったのなどは数百年も前のことだ、と書いている。
その時代から百年が過ぎた現在、工場の煤煙は消え、亀戸天神の藤や香取神社の梅などは見事に咲くようになり、北十間川や旧中川は魚が住み野鳥が来るような河に生まれ変わった。
「女工哀史」に書かれている当時の工員達の処遇は悲惨である。前借金などで事実上売られてきた工員が逃げないように、工場内の寄宿舎は監視され高い塀が張り巡らされていた。亀戸工場では外で買い物もできないために、紐に結わいてお金を包んだ風呂敷を塀の外に下ろして業者から買い物をしていたそうである。人々の自由が奪われていた時代というのは、戦時中だけであった訳ではないということだ。