墨田住人の備忘録

色々な情報に接して得心することは多いけれども、40を過ぎてからすぐに忘れてしまうので備忘録として書こうと思う。

はじめての福島学

 福島論で著名な社会学者の開沼博氏の新刊。

 開沼氏の本やインタビューなどは前にも何度か読んだが、個人的には結構チクチクと突き刺さるところがある。3.11の衝撃があまりにも大きかったので、私自身は福島、あるいは原発そのものに関する問題に対して感情的になっていた部分も少なからずある。当時の俄か勉強で得た生半可な知識を拠り所として、必要以上に放射線の数値に神経質になったり、福島に対する視線が偏っていたことは、今思い返しても反省しなければならないこともある。

 ただ、原発事故が発生した当時、あるいはそれから一年くらいというのは、実際には何が正しくてこの先どうなるのかということが全く不明瞭であったので、「とにかくよくわからないから危ない可能性のあるものを無条件に回避する」という態度であっても仕方がない面はあったと思う。特に小さい子供の影響などはこの先何年もしないとわからないことがあるので、親としては少しでもリスクを下げるという行動を取ることが正義である、という規範までも否定しようとは思わない。

 しかし、当時はどうなっているか想像できなかったけれども、今やもう4年が過ぎている。当時はわからなかった事や4年間のデータも蓄積されていきているのだから、当然のことながら当時の行動の基になってきた知識というのもアップデートして、4年後の今の時点であるべき行動規範を構築しなければならない。いつまでも古い情報、あるいは毎年3月11日に思い出したようにメディアに出現する断片的で紋切り型の「福島の今」みたいな薄っぺらい情報だけにさっと目を通して、原発事故直後の思考や行動規範に固執することがあってはならない。

 あってはならない、とは思うけれど、実際にわが身を振り返ってみれば、積極的に情報をアップデートして新たな行動規範を作っているとはとても言えない。正直に言えば、スーパーに並んでいる食物でも子供ががっつり食べるものであれば福島産のものを避けている。これは福島のものが今でも危険値が高いからという訳ではなく、難しいことを考えたり調べたりするよりも思考を停止して何も考えずに避けた方が楽だからである。こうなると、食物の産地を選ぶのは子供のためなどと言いながら、実は自分自身の怠慢のためであるというべきなのだろう。

 

 開沼氏や福島の人は、さまざまな偏見にさらされながら、言いたいことを声高に叫ぶのではなくなるべく穏やかな言葉で反論しようと試みる。ヒステリックな人たちの物言いに、感情的に対応してしまったらそれを燃料にして大きく燃え盛ってしまうことを知っている。だから言い返さないことをいい事に好き放題のことを言われてしまうこともあるだろう。

 反原発は一部では宗教のようになり、それにうんざりした普通の人たちは離脱していく。反原発の旗頭として、福島の人に寄り添うだとか、悲惨なことになった可哀想な人たちなんてことを言えば、アレルギーを感じる人は少なくないだろう。とりわけ、福島の人たちからすれば、不勉強なまま4年前の知識を振りかざして擦り寄ってくるような輩は、余計なことをする迷惑な連中以外の何者でもないだろう。

 

 著書の中で開沼氏は、こういう「滑った善意」に基づいた「ありがた迷惑」が横行している現状を憂いている。福島のために何もできないのなら、せめて「迷惑をかけない」というのが我々部外者の最低限のマナーだと痛感する。

 福島に行ったり、食べて応援するというのも勿論良いだろう。けれども、やはり本当は福島産のものが普通の値段でスーパーに並び、子供連れの親が気負わずに自然に福島産のものを買い物籠に入れるというのがあるべき姿なのではないかと思う。

 

はじめての福島学

はじめての福島学