墨田住人の備忘録

色々な情報に接して得心することは多いけれども、40を過ぎてからすぐに忘れてしまうので備忘録として書こうと思う。

依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実

 

 まだ読みかけの本ではあるけれども、そこそこ長いので途中で少し備忘メモを書いておこう。

 

 英国人のライターが書いたもので、現代における様々な依存症に関して興味深い洞察をしている。依存症といえば、酒、ドラッグ、ギャンブル、あるいはセックスなどが代表例として取り扱われる事が多いと思うが、本書では例えばアップル製品、ネットゲーム、あるいはネット上のポルノなどのインターネット関連、さらにはカップケーキや鎮痛剤など、それほど依存性と関連付けられ易いとは言えない様々なモノでも依存の対象になりうることが書かれている。

 

 私は以前、依存症ではないかと自覚するほどハマっていたものがあるので、依存症をテーマにした本はいくつか読んだことがある。ネットなどの情報も何度となく目にした。ただ、これまで何となく当たり前のように信じていて、その反面何となくもやもやしていた論法があって、この本ではそこに対していきなり突っ込んでいる。

 

 「依存症は本当に病気なのか」

 アルコールや薬物の依存症に関しては、病気であるので医師、あるいは専門家の治療がなければ依存から抜け出す事はできない、というのは、今の社会では何となく定説になっているように思う。それだけでなく、例えばギャンブルやネットなどの依存についても、これはもはや「病気」なのであって、専門の治療が必要になっているのにまだまだ認識が甘いなどという論調が多いように思う。しかし、タバコだって禁煙外来で「治療」が必要などと宣伝される一方、自力で禁煙できている元ヘビースモーカーなんて周りに沢山いる。

多くの依存症が「病気である」という認定を受けるメリットというのがあるというのは良くわかる。1つには当事者が「自分はだらしないから依存から抜け出せないのではなく、これは病気だから仕方がないのだ」と考えることで、強い罪悪感から開放されるという点だ。依存症に何がしかの責任を負っていると考えている家族などにとっても、これは同様に気持ちが楽になる考え方だと言える。もう1つは、少々穿った見方であるけれども、「病気」だからこそ治療が必要であり、治療や啓蒙の一端を担うグループにとってはある意味「病気である」ということはビジネスや社会的認知における必然性でもある。だからかどうかはわからないが、依存症の問題に関してマスコミが報じたり、あるいは書籍などで論じられたりする場合には、もはや依存症が病気の1つであることは当然のこととしてすっ飛ばして、その解決方法や治療施設などの話が中心になっているように思う。半分は「当事者」であったような私自身ですら、これは病気なのだという前提で捉えていた、あるいは誘導されて捉えるようになっていたのではないかと思う。

 

 しかし本書では、依存症は個人個人の内面に巣食っているというよりも、本人の周りの環境によって一時的にもたらされているものではないかと論じている。

 「依存症は『病気』ではなくて『習慣』である」

 なるほど、と思った。要するに、人間は誘惑に脆く、ストレスからの解放を渇望している。そこに何らかの幸福感を満たすモノ(本書ではFixと言うもの)が存在すれば、そこに手を伸ばすのは自然なことであり、個人の資質とは関係なく誰にでも起こりうることだと言っている。しかし、そこには例えば社会的な制約やアクセスの容易さなどの要因がある。例えばドラッグにしても合法であったり、金額が安くて簡単に手に入るといったことであれば爆発的に広がりうる。また、ストレスの少ない社会と、極端な例であるが戦場とでは勿論そういったものへの渇望感がまるで違う。

 

 現代の社会ではストレスフリーなどというのは望むべくもないので、何が何でも依存性のあるものを規制すれば良いというものでもないだろう。酒、体に悪い食べ物、ギャンブル、風俗なども、それはそれで依存性は高くて近寄らないに越した事はないのかもしれないけれども、ストレスの捌け口がなくなった社会はどうなるのかというのも良くわからない。しかし、こういった依存のサイクルをビジネス上の戦略として人為的に作り出していくということには、やはり何となく嫌な感じがする。

 しかし、だからと言ってそれを作り出す側だけに責任があるという訳ではなく、またそれは不可避なものでもない。本書では以下のように書かれている。

 「依存的行動とは本質的に自発的な行為なのだ」

 

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実